石川 浩司
出身:東京都
担当:ボーカル、パーカッション(スネア、タム、シンバル、タンバリン、鍋、桶etc.)、リコーダー、パンフルート、オルガン、コーラス
©『さんだる』/たま/地球レコード
※『たま』の世界観や詩は多様な解釈が許されており、以下に記述するのはあくまで僕個人の感想・考察です。
1.人物考察
石川浩司氏は核弾頭級のエネルギーを有した存在です。
非常にタイトな演奏と共に繰り出される、誰にも真似できない奇抜なパフォーマンスや、人の虚をつく間の支配、俗世を嘲笑う魔物のようなボーカルスタイルは、世界中を探しても類を見ないであろう独自の前衛性を持っています。
その凄まじいアバンギャルドさが、場合によっては見る者聞く者を多少ひかせてしまったり、根源的な恐怖に追いやってしまうこともあるでしょう。
テレビ等では「浮世離れした存在」「よく分からないけどヤバイ存在」「対話の通じない存在」としてキャラクター化されがちな石川氏ですが、それは上に挙げたような異常な表現力と情熱が「何に対して向けられているのか」を分かろうとしていないからだと思います。
たしかに、表層的な個性も魅力の一つではありますが、彼の狂気じみた立ち回りは支離滅裂な暴走ではなく、インテリジェンスにより体系化されたテーマがあることを理解すると、別の側面が見えてきます。
そのテーマとは「マジョリティを押し付ける者への憤りと哀れみ」です。
反体制だとか不良の心理だとかそういうレベルの話ではなく、その対象は万物の隅々にまで及びます。
「学校や会社に通うことだけが人生なのか?」
「互いの了承があっても差別になるのか?」
「自分の感想を口にすることが不謹慎になるのか?」
「常識ってなんだ?」「程度ってなんだ?」「道徳ってなんだ?」
彼の手によって掘り起こされるのは、生きる上で誰もが目を背けることを覚えてゆく、かくの如き闇の議題たちです。
「個性を伸ばす時代」と言いながら思考の同調を強いるこの国の矛盾に対して、頭が良すぎる故にどうしても折り合いを付けられない石川氏が、せめて表現者としてはリベラルを貫こうとした結果があのスタイルと詞なのだと僕は思います。
「思想や行動に客観的な評価を求めることなど誰にもできない」
「全ての価値観は究極的には主観的であり相対的である」
そんな自由主義の基本について「本当に分かってる?」「例えばこんな状況でもちゃんと人それぞれだといえる?」と、何度も何度も僕らに向かって彼は叫び続け、確認し続けているのです。
その手段としての歌詞を紡ぐにあたり「人に害をもたらすことすら思考の上では自由」という結論にまで突き詰めている点は、アメリカン・ニューシネマやピカレスク文学に近いともいえますが、目的の奥に自由の探求があるのではなく、自由の探求そのものだけが目的なので、分類するなら哲学だと思います。
言ってみるなら「衝動」ではなく「検証」としてガラスを割る尾崎豊のようなもので、そりゃ不気味に決まっています。
どこか「救い」や「反発する自分への葛藤」を残す個人的ロックとは根本から種類が異なり、石川浩司は論理的な確信を得た上で、眠れる大衆の「決めつけ」に石を投げつけ、道化のように微笑みを浮かべているのです。
そういう意味ではそこらのロックバンドよりもよっぽどロックしている「反骨精神の親玉」的存在ともいえます。
彼の手掛ける詩には別のテーマも混在しているし、他のメンバーの曲においても異才を放っているのはたしかですが、やはり原動力のルーツは同じだと思います。
2.ピックアップ曲紹介・考察
『学校にまにあわない』(収録アルバム『さんだる』)
『たま』で最も怖い曲かもしれないプログレ大作。
階段しかない建物の増築作業を突き進め、一転してそこから落下する情景を描いた前半部分と、狂気の世界に変貌した学校を語る後半部分で構成される。
「まにあわない」とは裏を返せば「まにあうことを強要されている」ということである。
「百万階建てのビルディング」が学歴・キャリアのことなのか、逆に「人からは無意味に見えるが自分が本当にやりたいこと」なのかは分からないが、重要なのは、そこから地上に落下しても無事で、かつ喝采を送ってくれる人々さえいるというのに、父親だけが後ろを向いているということ。
「学校に行くことが君のためである」と決めつける大いなる力に振り回された「僕」は、学校に行ったせいで死亡、もしくは異界へと連れ去られてしまい、後にはサイレンだけが不気味に鳴り響く。
『カニバル』(収録アルバム『そのろく』)
身体障害者(ひいてはあらゆるマイノリティ)への逆差別を痛烈に皮肉った超問題作。
禁止用語が含まれているので、放映時には100%の確率で規制音が挿入される。
妖怪が徘徊する集落のような場所を舞台とした和製ホラー風味の曲だが、妖怪は妖怪なりに楽しそうにしているのがミソ。
実際には妖怪ではないことはいうまでもない。
石川氏の呼吸に合わせた一糸乱れぬ演奏は圧巻で、特に後半のアドリブの一体感と高揚感は尋常ではない。
『そのろく』に収録されているのはLIVE版だが、とてもそうとは思えない珠玉のデキとなっている。
僕が『そのろく』を貸した女性はこの曲を聞いて体調を崩した。
『リヤカーマン』(収録アルバム『犬の約束』)
上半身だけリヤカーに乗った「リヤカーマン」、軍手を数十年はずさない「軍手マン」、風が吹いただけで脳震とうになる「脳震とうマン」の活躍が描かれる。
彼らがヒーローであるのかどうかについては明言されていない。
いかにもヒーローらしいそれぞれの戦闘アビリティであるかのように「リヤカーマン」を「速い」と紹介しておきながら、「軍手マン」の「臭い」、「脳しんとうマン」の「弱い」が横に並べられる。
これによって、何が取り立てられるべき個性であるのかは主観に過ぎないということを叫んでいるのだと思われる。
『みみのびる』(収録アルバム『犬の約束』)
石川さんにしてはサビ以外は比較的素直に解釈できるポップな曲。
猫が人間の膝の上に乗るのではなく、人間が猫の膝の上に乗る。
庭には新幹線が通る。
ブルキナファソ(カカオ収穫労働者の排出国)の社長から受ける電話の受話器はチョコレート。
一所懸命にうさぎ跳びをする柔道部は出口に辿りつけない。
ゴーゴーは無音で踊られ、葬式の棺桶に中身はない。
あらゆる定義を裏返すか拡大解釈し、物理法則すら捻じ曲げることで、常識の決めつけをパロディ化している。
「みみのびる」のは、聞く耳を持ってくれないから伸ばしているのだろうか。
それとも耳でできたビルなのだろうか。
『おなかパンパン』(『きゃべつ』収録)も構成は似ているが、あちらが自由選択の代償として孤独を突きつけられているのに対し、この曲にはそういう気配はない。
では彼を何を支払ったのか。
考えてみるとなかなか恐ろしい。
『誰も起きてこないよ』(収録アルバム:なし/ソロバージョンは『おいしいうそがいっぱい』に収録)
ピアノを基調とした、ブルージーな異色作。
主義主張ではなく、自意識の暴走や虚無感を描いた曲の一つ。
音をなくした世界で、真夜中をさまよう誰にも見えない幽霊になったような気分にさせられる。
上記に挙げた作品群のように、常識の矛盾を暴くためにあえて怪人に扮して暴れまわっているわけではないので、こういう曲の方が真に内省的といえる。
また、隠喩のユニークさはいつもと同じだが、「コミックソングの皮」がないので純粋に詩の秀逸さが際立つ。