柳原 幼一郎
出身:福岡県
担当:ボーカル、ピアノ、キーボード、ギター、アコーディオン、鍵盤ハーモニカ、コーラス
©『さんだる』/たま/地球レコード
※『たま』の世界観や詩は多様な解釈が許されており、以下に記述するのはあくまで僕個人の感想・考察です。
1.人物考察
いろんな意味で『たま』のポップ担当といえるのが柳原幼一郎氏です。
例外もありますが、彼の楽曲は四人の中では最も親しみやすいテーマを扱っていることが多いと思います。
類まれなる想像力と創造性に呼び起こされた彼の詩は、まるで本当に地球の果てまで見てきたかのような一大旅行記であり、極上のファンタジーでもあります。
その中で我々は、古今東西の情景と、そこに携わる陽気さ、もの悲しさ、狂気、そして色欲の世界を疑似体験することができます。
特に色欲をテーマにした曲の割合はかなり高いのですが、他の三人が時折しれっと紛れ込ませる変態チックな性ではなく、ある程度健全な性についての描写になっているのが特徴です。
ほとんど恋ではなく性そのもの、(男から見た)女そのものを描いているので、その点は非常に『たま』らしいのですが、それでも異性に対する率直な感情を主題に据えているのは柳原さんだけなので、彼は異色の存在だといえます。
それに限らずとも、マニアックなテーマをマニアックな表現で歌う他のメンバーと、大衆に通じるテーマをマニアックな表現で歌う柳原氏は、テイストがあからさまに違うというか、最初から別物だと感じます。
彼固有の「らしさ」は一体どこからくるのか。
決定的な相違点は、他のメンバーが「実存と社会のせめぎ合い」を描いているのに対し、柳原氏は「完全に実存に属した先の世界」を舞台にできるというところです。
彼の創りだす別世界は、もちろん、ところどころ現実世界の暗喩で構成されてはいるのですが、そこにはたしかに日常からの逃避行と冒険が存在しています。
それは、他のメンバーが真っ向から対峙している哲学的な障壁を、振り切った後にしか広がらないはずの景色です。
つまり、モチーフを体験よりも深層心理から引っ張ってくる方法は『たま』全体の特色なのですが、その引き出されたむきだしの心と本来の姿(だと自分が思うもの=実存)を、現実社会での在り方とどうすり合わせるのかという問題をはじめから無視できるのは、柳原氏だけのスタンスだと僕は思うのです。
実存と対人に不和が生じる滝本氏は、特殊な感覚と社会とのずれを、常に引きずったままこの世をさまよっています。
実存と倫理に不和が生じる石川氏は、社会全体を徹底的な理論を以て土台から切り崩すことを選びました(彼の自由さは実存を達成するための主張に必要な検証であって本当にありのままでいるわけではない)。
知久氏は一貫した自分だけの世界観を形作ってはいますが、そこは生存の案件が影のように追ってくる世界であって、実存が解放された「ファンタジー」ではありません。
しがらみに囚われず、ロマンを白いキャンパスにぶちまけることを許されているのは、ハナからそれを絵だと割り切れる柳原氏だけなのです。
だからこそ男の夢としての女という、希望に満ちたテーマが成り立つし、基本的に彼の作品にはポジティブな空気が流れているのだと思います。
リアルでも相当モテていた印象の柳原さんですが、万国の女を抱き、星空を眺め、吟遊詩人のように旅をするのが彼の本来の姿であって、それを「箱庭」の中に具現化することを邪魔するものなど何もないのでしょう。
念を押しますが、これは欲望を好き勝手に発散できるという意味ではなく、喪失や悲哀といった要素もロマンに含まれています。
また注目すべきは、他の三人が戦っている「個性と社会(多数派)との対立」からは解き放たれたこの物語の主人公も、より普遍的な「個人と社会(権力)との対立」に関しては成すすべがないという点です。
歴史の闇、圧政、戦争、科学の暴走は確実に「箱庭」を蝕んでおり、その流れは人類の滅亡、世界の終わりへと通じています。
これは、現実世界と詩世界の複雑な結びつきを切り離しているからこそ、逆にスッキリとした現実の反映・批判が可能となっているというメリットの結果でもありますが、ロックの魂を受け継ぐ表現者が、不可抗力的に連想する原型なのかもしれません。
そして、そのような「ニーズとしてのダークサイド」を含めた空想こそが、まさに時代が欲していたものなのだと個人的には考えます。
『さよなら人類』が大ヒットした理由は、『たま』に世紀末独特の「終末感」と台頭を始めた「セカイ系」の空気を求めていた人々に、最も望んだ形に近い「世界とぼく」を提供した天才が、柳原幼一郎だったからではないでしょうか。
2.ピックアップ曲紹介・考察
『オゾンのダンス』(収録アルバム『さんだる』)
『たま』史上最もポップな柳原氏の代表曲の一つ。
交わりの解禁にウズウズする下心が爽やかに歌い上げられるダンスナンバー。
知久さんと柳原さんの奇跡のハーモニーが、妖しさや儚さだけでなく楽しさにも化けることを証明する曲であり、石川さんの合いの手との相性も抜群。
四人のポテンシャルがどんな方向性においても超一流であることをはっきりと体感できる。
『どんぶらこ』(収録アルバム『さんだる』)
柳原さんの楽曲で一番狂気に満ちた怪作。
川を流れる妊婦たちをボクサーが殴り続けるのにはじまり、末恐ろしい情景が淡々と描かれる。
中絶が主題なのは間違いないが、「川」が女の中にあるものだけではなく、外にあるものも溺れさせていることや、三番で「赤ん坊」が文字通りの言葉で表現された上でミルクを飲んでいることを加味すると、中絶を通じて、出産した場合も含めたもう少し広い問題についても言及している可能性が残る。
「これだ」と解釈することは容易ではないが、人類が延々と繰り返してきたある種の「暴力」の歴史が歌われている……ような気がする。
一定のパターンを幻想的に彩り、やがてCメロで頂点に達する全員のコーラスと咆哮は、この世の全てを包括するようなカタルシスと、息を飲まされるような美しさを放つ。
一見、滑稽にすら思えるシュールな状況を切実な警告として納得させる力量はさすがとしか言いようがない。
『さよなら人類』(収録アルバム『さんだる』)
世紀末を代表する社会現象ソング。
『たま』で最も売れた作品であり、その後の彼らにレッテルを貼った呪いのような曲。
あからさまに人類滅亡と核戦争を想起させる内容だが、それだけにこだわることもないと思う。
例えば性行為と受精について歌っているととっても違和感はない。
こんな記事を書いておいてなんだが、一つの定義で縛り付けられるとは限らないから「物語」であり「歌」なのであって、それを理解した上で造形されているから『たま』の曲はこんなにもパワーを持っているのだろう。
『牛小屋』(収録アルバム『ひるね』)
僕が『たま』で一番好きな曲。
のびのびとした情事の描写が、現代社会から少しかけ離れた、どこかは分からないがどこかにあったのかもしれない「古き良き時代」や「冒険小説の舞台」のようなところに連れて行ってくれる。
しかしそれはこの曲の表の顔で、実際は……(規制に引っ掛かりたくないので割愛)。
センス抜群のタイミングで挟まれる知久さんのロックじみたギターソロと、どんどん重なっていく全員のコーラスがめちゃくちゃかっこいい。
ソロ時代のこの曲が、知久さん・石川さんと柳原さんが出会うきっかけになったらしいので『たま』結成の立役者といえる。
『お経』(収録アルバム『ひるね』)
音楽理論を超越し、不協和音を「そういう道具」として扱った曲。
和風ロックテイストで、実験的なのに最高にクール。
詩の内容は、スペイン語圏出身の外国人僧侶の哀愁を描く文学的なもの。
三島由紀夫の短編に似たようなものがあった気がするがたぶん関係はない。
「ぼく」と「あの娘」と「動物」以外の存在がメインに据えられている点がめずらしい。
『オリオンビールの唄』(収録アルバム『ひるね』)
柳原さんの悲しげなギターに、知久さんの軽快なマンドリンが絡みつく不思議な風合いを宿したバラード。
「少年の心を残した青年」の心象風景をよくモチーフにする柳原さんだが「母」について歌われているのはこの曲だけかもしれない。
『ぼくはヘリコプター』(収録アルバム『きゃべつ』)
下ネタ丸出しのコミックソング。
なのに全員がゴリゴリのバカテクを披露するので必見。
本当にフォークバンドなのか?
『満月小唄』(収録アルバム『きゃべつ』)
繊細な喪失感をファンタジックにまとめ上げた大傑作。
今風に言えばいわゆる「神曲」。
この曲のよさは言葉では言い表せない。
エモいコード進行とメロディが『たま』の文章世界とここまでマッチするとは。
柳原幼一郎が時代の影に隠れたポップスお化けであり天才であることを痛感できる本当に必聴の一曲。
『ジャバラの夜』(収録アルバム:なし/インディーズ盤は『たま ナゴムセレクション』ソロバージョンは『ふたたび』に収録)
なぜかメジャーでは発売されなかったLIVEの定番曲。
テーマは「性」だが、土着民謡をベースとしたようなお祭りっぽい雰囲気が特徴。
不気味さと楽しさが同居する味わい深い作品。